2012年 01月 14日
太陽が高い赤道近くにしばらく暮らしていたせいか、冬の太陽の軌道が低いのが毎日新鮮だ。 ![]() Ariake, Tokyo, Japan 2011年 03月 25日
今回の災害で亡くなれた方へのご冥福をお祈りします。 そして、いま以上事態が悪化することなく、被災された皆様がすこしでもはやく安心できる生活を取り戻すことができますように。 今月9日から16日の予定で国際会議のために滞在していたバリで、日本の震災・津波のニュースを知った。 10日の国際会議を終え、11日に現地の幾つかの目的地を視察した後にバイクで宿に向かう途中のことだった。バイク後席のスタッフが、スラバヤの母親が日本で大きな地震が起きたとメールで知らせてきたと怒鳴っている。 なんだか、このニュースが自分の理解できる範囲を超えるスケールの出来事と繋がっているような、いやな直感が頭を過ぎる。日本で大災害が起きない保証、そして東京でもそれが起きない保証は、そういやどこにも無いんだっけ。 あわててバイクを路肩に停め、パソコンをネットに繋ぐ。幾つかのニュースサイトを確認すと、まず、大きな地震が東北方面で起きたという記事、そして津波が生じる(既に生じた、だったかもしれない)という記事のほかには、手に入る情報がない。ともかく、家族が住む関東でも相当な揺れがあったらしいことは確認できた。 携帯電話から妻に連絡をとるが、まったく繋がらない。もしやと思いメールを確認してみると、有り難いことに都内で無事でいる旨を伝えるメールが入っていた。無事だということ以外には、勤め先の建物が酷く揺れたこと、東京ではビルが倒壊するなどの被害はないが交通は全面的にストップしており、今晩は都心から出られないかも知れないことが伝えられている。翌日は彼女がバリへ向かう日のはずだったが、飛行機に乗れるかどうかよりもまず本人が無事だったことに胸をなで下ろす。次に母に連絡してみると、こちらは運良くあっさりとつながる。母も無事だ。 このようにして、今回の災害と自分とのかかわりが始まった。 結局、妻が乗るはずだった翌日のバリ便は欠航となり、母の血圧は上昇し続け、病気療養中の身内が地震から数日後に亡くなった。いまは、妻はあらためて今月末にインドネシアへの再上陸に挑戦し、母の血圧はかかりつけの医師の処方した薬でうまく下がり、身内の葬儀は滞りなく終わった。 そのあいだの僕は、躰はインドネシアで意識は日本という心身分離の状態で過ごし、現地で先行して手に入る重要情報があれば即座に家族に知らせようと思いひたすらテレビとネットから災害情報をかき集め続けていた。当然現地でのプロジェクトはさっぱり手につかず、ただ情報収集の作業に中毒してゆくばかりの数日を過ごしていた。 振り返ってみれば、日本に触れられない場所にいるからだろう、想像ばかりをしていた数日間だ。 災害を想像し、家族を想像し、友人達を想像し、被災地を想像し、東京を想像し、日本を想像し、日本人としての自分を想像し、さまざまな死について想像し、地殻のシステムを想像し、海と陸を想像し、山手線の車内を想像し、放射能を想像し、風向きを想像し、世界を想像し、そしてその全ての先にある様々な未来の可能性について想像していた。 そしてもうひとつ、僕らの誰もがひとしく位置づけられるはずの「可能性としての難民」を想像していた。 今回の災害のしばらく前に、『未来都市の難民(refugees of future city)』という展覧会を現地スラバヤで企画していることを、このブログで話していた(二月中旬の投稿)。ここでは「可能性としての難民」を都市に潜在する(見えない)諸問題により生み出される立場として定義し話を進めていたが、はからずも日本で、そして北アフリカで、現実の(避)難民がいま多数生み出されている。見えない問題と見える問題の二つにおいて、僕らは「可能性の難民」だ。 この展覧会は、あえて「難民」をパッシブ(受け身)な立場のものとしてとらえない。 現在の延長上の(目的地の見える)未来ではなく、あえてその広い可能性を探り、そしてそれを創ることを試みる者はみな「未来へ向かう積極的な難民」だ。これから未来へ向けて様々なものの再建に取り組む日本や北アフリカの「難民たち」への最大の共感を持ち、この展覧会を実現させるつもりだ。 日本の震災、そしてリビアの内戦、この二つのニュースで、現地インドネシアののんびりしたスタッフたちの目つきは変わった。 クライシス(危機)は概ね悲劇だけれど、未来へ向けておこなう作業のために人を繋げる強い力も持つ。 ![]() 2010年 11月 25日
子どもはやがて大人になるけれど、その大人のはじまりくらいに大学生という期間がある(大学に行く人の場合のみだけれど)。 ここ数週間、現地大学(ITS:スラバヤ工科大学)の教員に招かれ、彼のデザインスタジオで指導をまかされている。グラフィックデザインを中心とするコミュニケーションデザイン専攻の三年生が対象だ。 課題は新たな企業広告戦略をビジュアルデザインの観点から探り提案すること。 大学自体はインドネシア国内でもトップクラスの国立工学系大学(日本では東工大やそれに準じる工業系大学と同等)だから、ある程度の手応えは期待して参加してみたのだけれど、ちょっと驚くほどの壊滅的な状態だった。 世界的にも多く採用されている指導システムだけれど、多くのアート・デザイン系の学科では、担当教員から課題が出された後の最終発表(提出)までの期間は一週間毎に提案内容や制作過程のチェックと指導教員との意見交換をおこなう。この学科でもその仕組みは同じだが、問題はとにかく大半の学生が制作プロセスに対して恐ろしく時間をかけてこないこと。当日の朝かせいぜい前の晩に思いついたアイデアを小さな紙片に落書きして来るだけだ。これでは情報量が不足しているから当然かれらの提案内容の善し悪しにまでは踏み込めない。自分はせいぜい「頑張ってね」としか言うことができない。 一年生の時点からこのような調子で学習(とはいえないと思うけれど)を続けてきた彼らの思考や技術のレベルを推することは、難しくない。最終提出日には、直前には学校で職業訓練的に学習したデジタル作業の技術を総動員してなんとか乗り切ってきたのだろう。そしてこれからもずっと。 面白いことに、こういった「思いつきのアイデア」からは、かれらが普段の生活の中で何を見どのような影響を受けているかということだけは、極めてクリアに見て取ることができる。すこし申し訳なくも思うけれど、彼らの一夜漬けの提案は自分にとっては現地市民の関心や状態を知る上での貴重な資料になる。 その彼らの提案の大半は、近年スラバヤにも増えてきたショッピングモールやテレビCMの広告技術の焼き直し(コピー)なのだけれど、その視点はあくまでも一消費者としてのものだ。消費者は本質的に広告の一歩後を進むから(与えられることを待ちそして反応することが消費者に課された役割だから)、その立場から現時点の広告戦略の先にあるなにかを提案することは極めて難しいだろう。もちろん、消費者が広告戦略を裏切る独自の振る舞い(購買行動や購買嗜好など)を見せることももちろんあるはずだが、それは多くの場合は(たとえ自己判断だと本人は信じていても)無自覚で反射的なものである。それを先端の広告デザイン戦略に利用するには消費者としての自分を外から眺める「提案者(計画者)」としての立場の視点を設定できなくてはならない。 トップクラスの大学がこのような調子だから、これからしばらくこの国にどれほどの数の「消費者的デザイナー」が生産されるかは推して知るべしだ。彼らは提案者になれない以上、デザイン・レイバー(労働者)としてのみ現実の社会に居場所を見つけることができるだろう。この国のデザイン教育機関が、技術訓練に重点を置き、指導者や提案者(つまり生産者)ではなく労働者(消費者)をつくり続けること以外に関心を持たない事のなかに、そして多くの学生達もそれに同意署名し自主的な思考と行動を停止させてゆく事のなかに、この国の歴史の数百年に及ぶ植民地経験のなかで育まれ焼き付けられた「被支配者マインド」の根深さを確認できる気がしている。 本来そこにある多様な伝統や文化、あるいは未来を指向する伸びしろや方向性という自立したアイデンティティが、どこかの地点で回収されフラットな「被支配者マインド」として再生産されること。それははたしてここインドネシアだけで生じていることだろうか。そして、この現代の「支配者」とはなにか。 ともあれ、多様性が回収される地点が未来の発見と発明を担う高等教育機関(大学)なのであれば、それはほんとうに空しく、そして危険なことだと思う。 ![]() 2010年 11月 24日
犠牲際(イド・アル=アドハー)の現場には多くの近隣住民が見物に詰めかけていたけれど、その大半が子ども達だったのは意外だった。生贄を屠る場面を目撃するのは、子どもにとってはきっと過剰に残酷な経験だろうと勝手に想像していた自分の感覚は、やはりどこか生命と死の実感から遠く離れたところで生きてきた人間のものなのだろう。 いまこの儀式の最前列に陣取る子ども達は、この一週間は生贄の山羊たちの良き友人だった。朝から晩まで、彼らは山羊たちと遊び戯れ、餌をやり過ごしてきた。この日には、どんなに彼らが抵抗してもその生命は損なわれるということは理解していながら、それでも、残された束の間の日々に友情を育んできた。 一頭ずつ、山羊は屠られてゆく。固唾をのみ、それを見守る子ども達。いつもは手のつけられないほど大騒ぎ好きのかれらも、この日は(おそらく決して宗教的に厳粛さを求められているからというわけではなく)おとなしくその場で事の流れを見守り続けている。たとえお気に入りの山羊の死に際して涙を流していても、けっして狼狽えたりその場を離れたりすることはなく。 子ども達の表情を見ていて、一つのことに気づいた。 この日の彼らの表情は、「おとな」のものだった。言い換えるならば、今日の彼らの顔は、自分が感覚したことについて深く思考・思索する人間の顔をしていた。生命がいままさにかれらの目の前で消えようとしていること。良き友である山羊たちが、宗教的な定めのなかに放り込まれ不可逆的な運命のプロセスを辿っていること。生きていることと死んでいることの境目はどこか。命はどこへゆくのか。どんなに山羊の生存を願っても、この儀式を止められないのはなぜか。ヒトはなぜそういうこと(生贄を屠る、あるいは他の生物の生命を損なうこと)をしなくてはならないのか。 彼ら子ども達がいま立っているのは、彼ら自身とは遠く離れたところで作られたこれらの壮大な矛盾の地平だろう。そしていま、彼らはその矛盾を乗り越える(それを自分の納得できる現象として再定義や理解の調整をする)ために、徹底的に考えることに取り組んでいる。そうやって大人になる彼らの精神は、しなやかな強度を持つに違いない。深く思考し問題(矛盾)を解決するということを現実の現場の瀬戸際でおこなうことのできる環境は、突飛かも知れないけれど、この時代においてはある意味で「先進(先端)的」なものだと思っても良いかもしれない。人間がその持てるポテンシャルを大きく引き出せる環境が「先進的」なのであれば、テクノロジーや情報の普及の程度とは異なるレベルで、こういった思考と思索を強く促す瀬戸際の現場も「先進的」と定義してみても面白いだろう(もちろんこれが歴史的・伝統的な儀式だということは百も承知で)。すくなくとも、学習塾や学校でおこなう思考・思索よりは、世界についてのタフでラディカルなアイデアを生産するチャンスが多くあるように思えるから。 ![]() そういう束の間の大人化を経験をした現地の子ども達だったけれど、もういまは子どもに戻り、今日もまた我が家に押し寄せひととおりの大騒ぎをしていったのであった。後に残るのはいつもまき散らされた膨大なお菓子の包み紙だ。まあ、ゆっくり大人になればいいのだからね:−) 2010年 11月 19日
実質二日間の祝祭と、ラマダン明けのイド・アル=フィトル(Eid ul-Fitr)よりは期間は短いが、このイド・アル=アドハー(Eid ul-Adha)の朝もイスラム教徒の市民は早朝の集団礼拝をおこなう。場所は町内の礼拝所や自宅内ではなく、近隣でも比較的大きなモスクとその周辺の封鎖された道路上だ。 普段はバイク、自動車、ベチャ(三輪人力車)、屋台などが溢れる近所のメインストリートも、この日の朝は厳粛な礼拝の場となる。この朝は、ここはメッカに接続する地球規模のイスラム空間の一部だ。 ![]() 礼拝が終わると、町内の男達は急ぎ供物の儀式の準備に取りかかる。 これまで山羊を繋いで置いた隣家の前庭が、そのままこの儀式の現場として供される。 (ここから一部血なまぐさい文章表現あり:写真は大丈夫) まず、生贄を処するための祭壇が設営される。この「祭壇」はごく簡素なつくりで、大きく掘った穴の上に頑丈な材木を一枚渡すだけのものだ。生贄の山羊はこの板の上に男達の手により固定され、首を割かれる。山羊たちは、この直後に己の身に生じる運命をもちろん予見するはずもなく、この唐突に始まった作業をただぼんやりと見つめている。 同じ敷地の片隅では、別の男達が解体作業のための櫓(やぐら)を組んでいる。とはいえこれも近所の鉄工所から借りてきた鉄管を結わえてこしらえた大きな物干し台のようなものだ。ここに絶命後の山羊の後ろ足を結わえて吊るし、血抜きをした後に大まかな解体をおこなう。ここで大きく解体した肉は、この敷地に隣接する礼拝所の井戸のある水場に運ばれ、近隣の女性達により寄り細かく捌かれる。彼女たちも、すでに床にビニールシートを敷き終え、刃物を研ぎながら(そしてここでは和やかに雑談などしつつ)供物の到着を待っている。 準備作業は速やかに進み、近隣住云隣住人が溢れている。その大Eも見学に集まってくる。すでに、敷地の前の路地まで見物の5は、これまでの数日間山羊たちの遊び仲間だった子ども達だ。 準備の男達は、この作業をおこないながらコーランの唱詠を始めている。みなこれまでの経験で成すべき事がわかっているのだろう、段取りについて言葉を交わすことはなく、ただコーランの詠み声がこの敷地に漂うだけだ。 一連の場の準備作業が整うと、供物の儀式は前触れなく始まる。一頭の山羊がこの祭壇に引き連れて来られるとすぐさま男達により前後の脚と首をつかまれ、材木の上に押さえつけられる。生贄を処する際には、彼の恐怖と苦痛を最小とするために一撃のみで首を正確に深く割く。刃物を往復させることも許されない。これはイスラムの決まりである。この作業は、町外から呼ばれてきた熟練の長老がおこなう。 山羊たちは、この祭壇に引き立てられたときに初めて己の運命を悟るようだ。脚を踏ん張り、叫び、逃走も試みるが、男達はそれを許さない。幾人もの腕で材木上にからだが押さえつけられると、すぐさま一切の躊躇なく刃物が彼らの首の上で滑る。信じられないほど鮮やかな赤色の血液が弾ける。 聖典の唱詠はいっそう高まり、この場の空気の要素の一部となる。この場の高揚と一緒に気温も上昇している。熱帯の朝の日差しは徐々に眩しく照るが、この儀式を取り巻く者のだれもが瞬きを忘れている。 一頭ずつ、正確にそして速やかに作業は進められる。血流と呼吸を失った山羊たちは、解体用の竿に吊されるまでの束の間、一所に積まれる。かろうじて息のあった山羊が残りの生命を振り絞り、その小山から立ち上がることもある。また、絶息するまで、長い首を鞭のように振り頭を地面に叩きつけ続けているものもあった。頭蓋と地面が激しくぶつかり続ける鈍く規則的な音が、まだ耳に残っている。 しばらくすると、その生贄の山にかすかに残っていた生命の気配はしずかに消え、それは命の次の段階の山となる。いまはただ我々人間が食するものの山だ。 長老が爽やかに家路に就く。「わしの写真を撮っときなよ」って。 肩から提げたバッグから、仕事を終えた彼の道具が顔をのぞかせている。 ![]() 2010年 11月 10日
奥さん帰国後も、しばらくはまだ転居後のさまざまな作業に忙殺されていた。 そのひとつが新居のお披露目会。 これはスラマタン(Selamatan)と呼ばれる転入(引越、自宅新築など)を祝う伝統的(かつ一般的)な宴で、主宰は世帯主である。ちなみに、「Selamatan」というこの宴の名称は、日常の挨拶でも用いられる無事や安全を意味する「Selamat」から来ている。 まずは「隣組長」へ挨拶に伺い、この宴の仕切りをお願いする。こちらで希望する人数に会わせた出席者の選択と招待、宴席で供する食事の手配など一切は彼に一任することになる。 ところで、現地「Kampung(都市集落)」は、日本にかつて広く存在したのと同じ「隣組(RT)」やその上部組織となる「町内会(RW)」により自治がなされている。この組織形態は日本軍政が現地に導入したものといわれてもいるが、確かにその組織のスケール感や相互関係の維持システムとしての住人の日常生活への関与の深度などは、いまでも日本の地方の古い居住地区に見られるものと近いように感じられる。相互監視と相互扶助を近隣関係の中で同時に成立させる独特の仕組みだ。 スラマタンへの出席者は基本的に男性(近隣各世帯の主)だ。招待状はこちらで作成し、必要枚数を隣組長へあらかじめ渡しておく。また、宴席ではイスラムの祈り(コーランの一部)を奉じるとのことなので、町内の礼拝所を拠点とするイマム(imam/導師)を招待することも依頼する。 食事についても、ジャワの伝統的な祝い料理である「トゥンパン(tumpeng)」という大きな盛り飯を宴のシンボルとして一つ、それに加えて箱入りの弁当(白飯、唐揚げ、焼きビーフン、ゆで卵、テンペ=現地の納豆、バナナ)を人数分以上手配することを隣組長にお願いする。その他には大量の飲料水(カップ状のペット容器に入ったミネラルウォーター)と人数分の小皿に盛り分けた各種お菓子も用意するが、それはこちらでおこなう。トゥンパンの飯は通常の入居祝いの場合は白飯なのだそうだが、今回は自分が新婚でもあるということで、結婚の宴で供するのと同じターメリックで着色した黄飯トゥンパンとしてもらう(奥さんの現地滞在とタイミングが数日ずれてしまったのが残念)。 てっきり料理はどこかに外注と思っていたのだけれど、隣組長家族が親類総動員で全て準備していたのには驚いた。こちらとしても費用を抑えることができ、また隣組長一家にとってもこの機会は悪くない副収入となるはずだ。集落内での雇用関係(近所のおばちゃんをメイドとして雇うなど)や、各種作業(家の補修など)の注文・請負などで互いの生活を維持し合う関係が様々なレベルで結ばれているのも、ここスラバヤのKampungの大きな魅力のひとつだ。スーパーではなく隣りの雑貨屋を、他所の大工ではなく近所の器用なおじさんを、というミニ経済圏の感性がこの場を維持している。 食材調達から調理まで全てこの町内で賄われた今回の料理は、この場所に新しく生活をはじめる儀式には最も相応しいもので、そしてもちろん、とても美味しいものだった。 ![]() トゥンパン(盛り飯)の形状は円錐だ。これを宴の冒頭で世帯主が取り分けるのだが、最初の一すくい目はその最頂部に対しておこない、それを列席者のなかの最重要人物(今回は隣組長)にはじめに供するのが正式なやりかたである。日本の地鎮祭との類似が面白い。地鎮祭ではやはり円錐状の盛り土を現場の責任者が最初にかけ声をかけながら鍬でかき崩してゆく。日本とインドネシア以外のこれに類似する事例は知らないが、この円錐形とそれを損なってゆく儀礼の行為には、このアジア圏に共通する「場をひらく」時点を担うことの秘密があるのかも知れない。円錐形という極めて人工的な形態は、いったい何に由来しているのだろう。 入居の宴は滞りなく執り行われた。 自分のプロジェクトに関わるITS(スラバヤ工科大)の学生達も準備や片付けの手伝いに駆けつけてくれ、大いに助けられた。また宴の場では列席者からの要望により相当詳細な自分の自己紹介をおこなう羽目にもなったのだが、英語でしか話せない自分の通訳をやはりITSの教員であるDickyが上手にこなしてくれた。改修工事のリーダー役以降もまだ新居の面倒を見に来てくれているベチャ(三輪人力車)引きのGomatは、もちろんこの日も会場設営作業の監督を務めてくれた。まさに右も左もわからない自分がこの現地集落の深部に飛び込んでもなんとかうまく生活できているのは、近隣住民も含めた彼ら現地の友人達の心強い力添えがあるからだと、イマムの唱む祈りと人々の集いにより清められた部屋の中で、あらためて、この場と人々への強い感謝と信頼を実感していた。 2010年 09月 30日
ようやく運転免許証を取得できた。 誰に尋ねても「外国人が免許を取る方法」を知らず途方に暮れていたのだけれど、こちらで知り合ったある家族(中国系)がそれなら任せておけと助けてくださった。 その家族の友人の警察関係者を通じて申し込めば「なんとかなる」とのことだったので、半信半疑で今までコツコツ取得してきた身分証明書一式(もうすでに信じられない量の各種身分証を持っている。。。)の写しを一式お渡しし、待つこと一週間。じゃあ写真を撮りに免許センターへゆくよと連れて行かれてその場でハイ完成と、あっけなく取得できてしまった。ほんとうに「なんとかなった」のだ。 また一つインドネシア流の物事のすすめかたを学んだ。組織内部(できれば高いポジション)に知り合いがいれば、大抵の問題は速やかに解決する。今回も、自分は最後の受け取り以外では一度も免許センターに行くことなく、その警察関係者が(たぶんスタッフに命じて)あらかじめ渡しておいた書類を処理し、通常であれば実技試験も要求されるがそれもすっ飛ばし、免許センターでの写真撮影でもごった返す順番待ちの列の一番前に誘導され、すべての手続きが済んでしまった。免許証は、はじめに渡されたのは車のみだったが、バイクと車の両方が必要なのだと言うと、「じゃあバイクの分もすぐ作るから」と本当にすぐに作ってくれる。 うーん、これまでの役所巡りの苦労を振り返ると、かかる労力のあまりの落差に頭がくらくらしてくる。 ともあれ、これで晴れて免許持ちで運転ができるということだ。ということはいままでどうしてたの?なんて聞かないでほしい。すでにまた別の「インドネシア流」の実践を自分なりにしていたということです。 免許センターは、なぜかホンダが協賛している。役所に民間企業の協賛がつくというのは妙な感覚だけれど、このストレートな関わり型は双方にとり意義のあるやり方であることは少しは理解できる。まだピンと来ないけれど。 センター内のホンダ広報ブースには、バイクの安全運転指導用のドライブ・シミュレーターが設置してある。 ホンダ社提供の物品だからそれが精巧な作りであることには驚かないけれど、このシュミレータにプログラムされた架空の町のデザインを見て、また一瞬現実の感覚が揺らぎ目眩がする。そこに描かれているのは、まったくの架空の世界なのだけれど、紛れもなくしっかりと見覚えのある日本の「どこかの/どこでもない」地方都市の風景だ。ぼんやりとした日常生活の質感が実感できる、「一般的 / genelic」な都市の光景だ。小学校、倉庫、オフィスビル、公園、コンビニ、ガードレールなど、あくまでも架空の世界なのにしっかりと日本の風景として構成・完成されていることが衝撃的だ。言い換えると、日本(に限らないかもしれないけれど)の地方都市ニュータウンの風景というものがいかに簡単に再現ができるものか、さらに言い換えれば、いかに簡単で少ない数の構成の要素と原理しかこの風景がもたないかが、いまさらだけれどよくわかった。 まさかインドネシアの運転免許センターでそんなことを再確認することになろうとは、そして、シミュレーターの画面の世界にまんまと自分が郷愁を覚えることになろうとは、まったく思いもしていなかった。 ![]() 2010年 09月 17日
数週間前から、ジムに通っている。 インドネシア渡航前後(現在まで)の数ヶ月は様々な用事に追われて満足に走れていなかったから、筋肉量も相当落ちているはず。自分の場合には、疲れやすくなったり食事にルーズになってくることでその兆しがわかる。 これまでは、日本に限らず海外でも路上を走ることこそこの趣味の一番の楽しみだった。特に、旅先の慣れない町を走りながら全身で町の姿を知覚してゆくのは、刺激的だ。単に風景だけでなく、歩道や段差の一つ一つのディテールはそれぞれの町で微妙に異なり、それがその町全体のキャラクターの理解に直結してゆく。自分にとっては趣味も兼ねた有効な都市観察の手法でもあった。 しかし、ここスラバヤでは路上走行をあきらめざるをえなかった。 理由はそれがこの町では様々な面で「危険」な振る舞いだということ。道路交通の混沌・混乱具合を考えると、のんきに路上を走るジョガーはほぼ確実に交通事故に遭うはずだ。また、歩道表面の状態も荒れているなんてものではない(敷設ブロックがめくれていたり、深い穴が開いていたりするのが普通)し、障害物(巨大すぎる植え込み、駐輪中のバイク、屋台、などなど)、怪我の可能性も高い。そして熱帯の気候の中では、午前7時以降は走らない方が身のためだ。トレッドミルの上で走るのは残念だけれども。。。 かくして、ジムの会員となった。現地には様々なジムがあるが、ファシリティが充実しているのは大型ホテルだ。複数調べてみたが、値段に大きな違いはなく、五つ星ホテルのクラブ会員でも日本の標準的なジムのおよそ半値以下だ。ということならば、最高級ホテルのジムの会員となるのが今回のプロジェクトのためにも得策と考えた。なぜなら、そこは必ずこのスラバヤの最上層階級市民の社交の場となっているはずで、普段自分が接するKampung(都市集落)の住民が語るのとは異なるこの町の姿(そしてKampungという特異な都市居住の場の価値)を彼らとの交流を通して知ることができるはずだからだ。この狙いは正しく、Kampungに籠もっていては決して出会うことのないこの都市のリーディング・プレーヤー達(銀行家や資産家達)との接触が、少しずつ始まっている。 Kampungの住民と同様に、彼ら上層階級市民もまたスラバヤ市民だ。当然、都市に及ぼす影響のありかたは両者では大きく異なる。格差の裾野が大きく広がる社会では、その両端のどちらか一方だけでは都市は成立しない。都市の底辺やその問題への関心が単に上層市民の存在の否定と貧者・弱者への同情となる(大抵そこには懐古趣味も関与する)場合、その安易な態度自体が実は特権的である。そして多くの場合、そのように都市と関わろうとする本人は、そのことに気づかない。 スラバヤという一つの都市はいかに多様に語られるのか、そしてそのなかで不動の強度を持つこの都市のKampung(都市集落)はどのように価値づけられているのかを、様々な市民との出会いをとおして知ってゆきたいとおもう。 そのように多様な情報を収集するための開かれた場や機会をつくることを、今回の自分の都市スタディ・プロジェクトでは重要な挑戦の一つとして位置づけている。10月から移り住む新居(いま住んでいるのとは異なるKampungにある)は、そのための公開実験の場として活用してゆく計画だ。またその経過もブログで紹介してゆきたい。もちろん、体も鍛えつつ(笑)。 ![]() 2010年 09月 12日
昨日は久しぶりに何するわけでもない一日を過ごしてみた。 クラゲ並みの主体性で動いてみるのも、たまにはいい。 Andhikaの同窓会にくっついていってみたり、それを中座して昼寝に帰ったり、その途中で食べたいのかどうかはっきりしない果物を買ってみたり、Andhikaとその妹と家族のアルバムを眺めてみたり。。。そうやっていると空腹が訪れる気配も妙にリアルに感知できる。いやそれだけが、自分という馴染みのある現場に起きている唯一の事件だ。なんてぼんやり考えている内についに本格的な空腹となったので屋台でsate食べてお茶飲んで水浴びして歯磨いておやすみ。 ![]() 2010年 09月 01日
スラバヤのKampun(都市集落)は、夜にこそ花開く。 近所の商店までの買い出しの道すがら、夜の集落散歩を毎晩楽しんでいる。Kampung毎にそれぞれ異なるポリシーを持つのだとおもうが、その多くは夕方18:00頃から集落内をバイクがエンジンをかけて通過することを禁じている(つまり、エンジンを止めて押して歩かなくてはならない)。平安を取り戻した集落の夜の小道は、老若男女の隣人たちで満たされる。蒸し暑い屋内を嫌ってという事だけでなく、なにより近隣の仲間と一緒にいること(話すこと、遊ぶこと)が大好きで、建物から人や出来事がにじみ出てきているように見える。 路地の適度な段差は路肩に置かれたテレビの鑑賞席となり、そこだけちょっぴりセットバックして建てられている民家の前は縁台が置かれて即席の賭場になる。おばちゃんたちは数名の仲良しグループ毎に近所を徘徊し、闇夜に紛れてうわさ話の種まき&刈り取り作業だ(でも彼女たちのおかげで、自分の存在も「最近住み着いた謎の日本人=Mr. Kenta」として近隣に広く認知されつつある)。子どもたちは蛍光灯の街灯の下でサッカーに興じているし、様々な手押しの屋台(ロンボン)もこの深夜のユートピアを目指しやってくる。乳児をあやすメイドたち、ゴシゴシ手洗いの洗濯、路肩で昼寝(夜だけど)する若者、宿題に取り組む小学生、たむろするおじさん、公開プレステ、流しの演奏、猫、追いかけ合うネズミたち、もちろんゴキブリも。ここには、おそらく排泄とセックス以外のすべての生活の情景が露出している。 そういえば、高校一年生の夏休みだったと記憶しているが、東北の父の実家への帰省中に一冊の文庫本を祖父から手渡された。その本の名は『パリ・ロンドン放浪記』。英国の作家ジョージ・オーウェルの処女作で、パリ・ロンドンの最底辺の庶民生活をオーウェル自らそのスラムの住人となり(そして極貧生活をおくり)記した珠玉のルポルタージュだ。 この本が祖父から手渡されるとき、つかのま彼が真剣に躊躇したことをいまでも覚えている。「これはとても面白く、そして生きることについての重要なことが沢山書かれた本だから是非今のおまえに読ませたい。しかし、どうもおまえの性格を考えると(この本への共感が深く意識下に残留したあげく)オーウェルと同様に将来どこかのスラムをさまよっていそうな気がする。だからこの本をおまえにやるにあたっては実は相当な不安を感じているのだ」。 おじいちゃん、その予感は正しかったようです。 すこしドブ臭い夜風も心地よく、夜向けの穏やかな喧噪と軽食屋台の奏でる電子音が、朝に向かって去ってゆく。 ![]() < 前のページ次のページ >
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岸健太(建築家) / Kenta Kishi (architect)
LWL (Lab. for the wonderlandscape) 代表
![]() 今日の眺めのメモランダム / memorandum of today's wonderlandscape by Em_garden カテゴリ
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